大黒屋光太夫記念館 大黒屋光太夫の紹介

ページ番号1014842  更新日 2025年3月7日

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大黒屋光太夫

漂流

 伊勢国南若松村(現・鈴鹿市若松)に生まれた大黒屋光太夫(1751~1828)は、白子湊を拠点とする廻船の沖船頭でした。 1783 年 1 月 15 日(天明2年 12 月 13 日)に17名の仲間で白子を出帆した光太夫一行は、駿河灘沖で暴風雨に遭い、アリューシャン列島アムチトカ島まで漂流してしまいます。

ロシア横断

 ロシア人に助けられ、極寒の孤島で生活を始めた光太夫たちは、やがてロシア語を習得し、ロシア人と協力してカムチャッカ半島に渡り、さらにシベリアを横断してイルクーツクへ至りました。そこで帰国願いを提出しますが却下され、キリル・ラクスマン(1737~1796)の協力を得て、皇帝に帰国を嘆願するためにサンクトペテルブルグへ向かいました。

 そのころ、ロシア皇帝エカテリーナ 2 世(1729~1796、在位 1762~1796)は、ロシア帝国の領土拡大をはかり、南方(黒海北岸、ウクライナ)、東方(東シベリア)に進出していました。ロシアは、日本との国交交渉をするため、キリル・ラクスマンの息子であるアダム・ラクスマンを遣日使節として派遣し、光太夫を送還することを決めました。

エカテリーナ

ラクスマンの来航

 1792 年 10 月 9 日(寛政 4 年 8 月 24 日)、光太夫らとラクスマン一行は根室に上陸しました。遭難から約 10 年後のことでした。17名で出帆した光太夫一行でしたが、再び日本の地を踏んだのは光太夫と磯吉、小市の3名のみでした。(小市は根室で病死)。

 幕府は、ラクスマン一行に応対することを決定し、史上初の日露交渉が松前藩の城下町である松前で行われました。ラクスマンは幕府に対し、ロシアとの正式な通商を求め、それに対し幕府はラクスマンに「長崎入港許可証(信牌)」を交付しました。そして、光太夫と磯吉は幕府に引き渡されました。

漂流人帰国松前堅之図并異国人相形図

帰国後の生活

 1793 年 10 月 22 日(寛政 5 年 9 月 18 日)、光太夫と磯吉は、11代将軍・徳川家斉の上覧を受けました。この時の問答は、将軍侍医・蘭学者桂川甫周によって「漂民御覧之記」という書物になり、全国に広まりました。また、甫周は光太夫からロシア事情を聞き取り、日本最初の本格的なロシア研究書である「北槎聞略」を著しました。

 江戸時代後期には、南下したロシアとの接触が増え、幕府は北方防衛を強化するためにロシアに関する知識を求めるようになりました。光太夫のロシア情報は、政治家や蘭学者たちに注目され、外交・地理・言語・技術などの分野に影響を与えることになりました。

道のり


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