第3回「青年海外協力隊三重県OB会」

ページ番号1006383  更新日 2024年1月23日

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とき
平成28年12月8日(木曜日)18時15分~19時45分
ところ
市役所本館12階1203会議室
参加者
青年海外協力隊三重県OB会 8人(男性6人、女性2人)、市長、その他関係市職員

今回のミーティングで出た主な意見

  • 青年海外協力隊への参加動機について
  • 多文化共生社会について

1 開会のあいさつ(事務局)

 皆さんこんばんは。本日は、ご多忙な時間帯に「市長と話そう!鈴鹿(まち)づくりミーティング」にご参加いただきまして、誠にありがとうございます。私は、本日、司会を務めさせていただきます市民対話課長の吉崎と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
 さて、この「市長と話そう!鈴鹿(まち)づくりミーティング」につきましては、市長自身が最も大切に考えている対話と協働を進める上で重要な事業であります。そうした中で、このミーティングも平成23年度より回を重ねまして、各地域の皆さま、そして各分野で活躍されてみえる団体の方々との意見交換を行ってきました。本日のミーティングは、今年度、第3回目となります。どうぞ、よろしくお願いいたします。
 それでは、まず始めに末松市長より、ごあいさつをさせていただきます。

2 市長あいさつ

 皆さんこんばんは。本日は、青年海外協力隊三重県OB会の皆さまにおかれましては、大変ご多忙な中、この「市長と話そう!鈴鹿(まち)づくりミーティング」にご参加をいただきまして、誠にありがとうございます。また平素より、本市の市政運営に対して、大変ご協力ご尽力を賜りまして、この場をお借りして、心からお礼と感謝を申し上げるところです。
 さて、先ほどお話がありました通り、この鈴鹿(まち)づくりミーティングにつきましては、市長に就任して以来、今年で6年目になりますが、最も大切な事業として開催しており、皆さま方から直接ご意見を聞かせていただき、政策に反映していきたいという趣旨で開催しています。今までにも、いろいろな団体の方々とお話をさせていただいて、いろいろご提案をいただいて、政策に反映したものもあります。今回は、「国際協力とこれからのまちづくり」がテーマですので、これから発展していく国での、皆さま方のいろいろな経験や、今まで培っていただいた技術などを、経験の中からお話していただけると思い、楽しみにしています。ぜひそのようなお話を聞かせていただいて、今後、私どもの国際交流、多文化共生などに結びつけていけたら大変ありがたいと思っています。
 さて、鈴鹿市では、平成25年に鈴鹿市をイメージする「さぁ、きっともっと鈴鹿。海あり、山あり、匠の技あり」というキャッチコピーを作成しました。このキャッチコピーの中では、鈴鹿サーキットを中心としたモータースポーツのまちをイメージする、あるいは伊勢湾から鈴鹿山系に広がる自然に恵まれたまち、そこから生まれる農水産物、伊勢型紙、鈴鹿墨の伝統産業、また自動車製造業が盛んなものづくりのまちなどをイメージする、鈴鹿にふさわしいキャッチコピーを掲げて、シティセールスを行っているところです。
 また鈴鹿市は、平成24年度から「鈴鹿市まちづくり基本条例」に基づいて、地域コミュニティや市民活動の活性化をさせるために、地域づくり協議会などの団体活動の支援や人材育成にも取り組みを更に進めるなど、皆さんで協働をして活力ある力強い鈴鹿市を持続する施策を積極的に推進しているところです。ぜひ、今日の皆さま方とのミーティングが、国際理解に繋がっていくこと、さらには市政に反映ができることを期待させていただいて、忌憚のないご意見をいただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

3 参加者代表者あいさつ(※※※※様)

 私は、青年海外協力隊三重県OB会の会長を10年ほどさせていただいていますので、早く若返りを図りたいのですが、なかなか難しいのが現状です。青年海外協力隊三重県OB会というのは、1975年に設置されて、今年の9月で会員数が180名です。今まで過去に三重県から協力隊で参加された方が、500名前後います。ただ、三重県の場合は帰ってみえてから出ていかれる方が多いです。
 会の活動としては、毎月を目標に協力隊ナビを開催しています。本来であれば、津市や四日市で開催したいのですが、たまたま私が名張なので名張で開催しています。毎月第1土曜日に2時間程度やっています。ただ、なかなか参加していただける方が少なくて難しいと思っているところです。あとの行事としては、自分達も楽しむということで、冬は新年会と夏は山や海で合宿をして、皆で集まっています。その他の行事で、エッセイコンテストをJICA(ジャイカ)主催でやっていますが、その中学生の部の一次審査をOB会の方でやっています。あとは、近辺の行事に参加するということで、伊賀のにぎわいフェスタや国際貢献フェスタ、多文化共生啓発イベント、ガス展などに参加させていただいています。また、パネル展を同時に開催したりしています。現在のところ、行事参加者がなかなか増えないという悩みを抱えています。ただ、地域との関わりという点では、いろいろな協働事業を進めていきたいと思っていますが、ここ鈴鹿市とは以前に災害協定を青年海外協力協会というところと結んでいただいていますので、何かあれば協力するということになっています。

4 参加者自己紹介

参加者 1978年から1981年、ケニアで稲作の指導をしていました。今から40年以上前ですが、本当に田舎で、ケニアの端にあるビクトリア湖という大きな湖の湖畔に面した町でした。ところが、ヨーロッパの人たちは、快適な生活を送ろうとして、こういう所に来ても、ソーラー温熱器を試みていました。この時、近くに農業試験場があって、そこは、今日本で一生懸命やっているメタンガス、つまり堆肥を発酵させてメタンガスを出して、そのガスでレンジをするということを、この時に既にやっていましたので、今思えば、かなり進んでいたんだと思います。ほぼ赤道直下なので、お湯はとても熱いです。ただし、それは天気が良い時だけで、天気が悪い時は、お湯が出ないので、冷たい水を使わないといけないです。稲作指導で行っていましたので、収穫期には収穫を祝い、記念写真を撮っていました。かなりお米は獲れていました。ただし、インディカ米ですので、ぱさぱさの米ですが、圧力鍋で炊くと結構おいしいです。3年間いましたが、生活に慣れるまでに半年かかってしまう、食べ物も言葉もそうです。実は、派遣に行く前に、英語の勉強をして行きました。その時に言われたのは、現地に行ったらスワヒリ語を使うと聞いていましたが、実は、違う部族の村に入ることになり、ルオ語を使う地域だったので、私はルオ語を使うしか仕方がなかったので、ルオ語を覚えました。写真を撮るというと皆きれいな服に着替えますので、普段はそのような格好はしていません。向こうでは、写真を撮るというと、きれいな格好をしないといけないと思っているようで、写真を撮るまでに結構時間がかかります。ですから、写真の服装と実際の生活は一致していないと思った方が良いと思います。こんな感じで3年間指導をしましたが、実は、7年ほど前に、ここと同じ場所に行ってきました。そうしたら、稲の耕作面積がかなり増えていました。それは、中国の援助が入って水を送れるようにしてくれたような事があったようです。中国と日本の違いは、中国の人は、向こうへ行って自分たちで固まって事業をして帰って行くので、村の人との接触はほとんどないですので、誰も知らないです。でも、僕が40年ぶりに行ったら、みんな覚えていてくれたので、それはやっぱり協力隊の良さだなと思います。

参加者 派遣国はネパールで、自動車整備士ということで行かせてもらいました。平成19年4次隊ですので、平成20年3月に行きました。ネパールのサノティミという町の技術訓練校で自動車の整備方法や、今は日本では当たり前になっていますが、電子制御システムなどの技術を指導してもらえる人がいないということで、そのようなシステムの紹介と整備方法を教えに行きました。ただ、部品が全く足りなくて、エンジンの形になっている物が本当に少なかったです。ですので、生徒によっては満足がいくようなエンジンを知ることができなかったので、私の活動としては、教材を直したり、あちこち行って部品を集めて来て一つの物にしたりという活動がほとんどになりました。日本では既に使わないような部品が、ネパールではまだ使われていましたが、それでもなかなか手に入る事はないので、やはり壊れた物を集めてきて、一緒に活動を手伝ってくれた同僚と二人で、あれこれ直して使えるようにして教材にしたりということをしていました。あと、電子制御システムを教えるということがメインでしたが、そのエンジンが全く無かったので、それを一つ作りました。作ると言っても、結局1年ほどかかりましたが、電子制御ですので、コンピューターとか必要なのですが、部品やエンジンとの兼ね合いなどもありますので、私も勉強しながらの状態で、同僚もいい勉強になったと思います。最終的には、組み上がってエンジンもかかったので、皆さん随分喜んでくれました。自動車に関する事が主でしたが、たまにはオートバイの事も教えたりしていました。あと、よくあったのが、学校なのに一般の方が修理に持ってみえますので、私がするのではなく、生徒たちを呼んで直させていました。自分が隊員で行った10年前にも旅行で行っていて、その時は、車は本当に走っていなかったですが、その後の10年間でとても車が増えて、渋滞など無かったような所だったのに、万年渋滞のような所もあって、渋滞が増えた事に伴って事故も増えたみたいですので、専門家の方と交通マナーやルールの啓発運動のお手伝いなどもしました。

参加者 2001年に南太平洋のトンガの科学技術学校に派遣されました。鈴鹿で言えば鈴鹿工業高等専門学校のような位置づけの学校です。そこの電気科でカリキュラムの作成や教材やテキストの作成をしながら教師を指導する、時には生徒に講義をしていました。最初に講義をして生徒の数は、16人でした。倉庫のような教室で、雑然としていて、ネズミが走り回っていました。私は、2003年にトンガの任期が終わったのですが、5年後にもう一度同じ所へ派遣されました。その時は、82名の新入生が入ってきました。はじめに指導していた先生が、その時は副校長になっていましたし、教え子が何人かは先生になっていました。10年間トンガを眺める事ができましたが、その他、マレーシアの方にも同じような学校に検査で行かせてもらいました。リタイア後の60歳代をシニアボランティア活動に恵まれて通り過ぎました。私は、企業で産業用インバーターの開発を担当させてもらっていまして、設計だけではなくて、トラブルがあると現地に出たり、時々海外に出張したり、技術屋としては恵まれた仕事をさせてもらいました。

参加者 派遣された国はウガンダ共和国で、職種としては医療機器ということで、病院に派遣されまして、使われていない医療機器の保守メンテナンスや看護士さんに対するトレーニングをしていました。2010年の1月から2012年の2月までの派遣でした。これは、JICAのプログラムの中の一つでユーザートレーニングという形ですが、僕の行っていた病院が地域統括をしていたので、いろんな病院が管轄していた看護士さんたちを呼んで、実際に多く使われている医療機器の使い方や保守メンテナンスを指導していました。アフリカという国は、電気が不安定なので、突然停電して突然復活したり、コンセントが焼け焦げたり、コンセントを引き抜く癖があるので、多くの故障の原因はそちらだったので、適切に使えるようにすれば、故障もおさまりますし、部品が行き届かないので、適切に使うように指導させていただきました。子どもたちと、よくサッカーをして遊んでいましたが、村の子たちは、裕福とは言えないのですが、その辺にゴミ袋が落ちていると丸めてサッカーボールにしてサッカーをして遊んだり、よくテレビでも見るような、頭の上に20kgもするような物を載せて運んでいましたので、手伝いながらやっていましたが、あれは、日本人がすると首が折れるくらいの物です。井戸水がないので、生活水も川まで行って汲んできます。子どもたちの仕事としては、朝から水を汲んできて、学校帰ってきてからまた汲んでいました。朝起きて最初の仕事は水汲みという仕事をしていましたが、彼らはきらきらした目をして遊んでくれていたので、むしろ僕が癒されていました。

参加者 2013年7月から2015年7月までガーナへ派遣されていました。職種は、獣医衛生ということで、ノーザンにある中央獣医学研究所というところに派遣されまして、防疫という疫病を防ぐことで、疫病になるような防疫業務で、家畜の死亡原因の検査などをしていました。あとは、隣接する専門学校の学生さんたちがいて、その中の一部で将来研究所で勤めるような子たちに、研究所業務の指導をしていました。ただ、インフラが非常に悪くて、僕がいた2015年ですと2日に1回は12時間停電するような所でしたので、やはり検査だけだと、なかなか一日の大半が暇な時間になってしまうので、隣に来ていた日本人の女性の方が感染症対策ということで、ガーナだけではなくて、アフリカの多くの国がそうなのですが、下痢などの簡単な病気で幼児の死亡が多かったので、それをどのように防いでいくのかということで、国をあげてやっているのですが、その中で、小学生とか小さい子どもを対象に、手洗いをすることとか、ゴミを捨てないような啓発をしていくようなことを、空いた時間に啓発していました。ガーナは6割がキリスト教徒です。北部のサハラ砂漠に近い所に行くに従ってイスラム教が多くて、3割強がイスラム教徒です。僕のホストファミリーもイスラム教徒です。奥さんは3人いました。ホストファミリー全員に会っていないので、人数が把握出できていなかったのですが、多分20人強いたと思います。その中でもお姉ちゃんたちは割と年齢が近かったので仲良くしてくれて、ほぼ毎晩ご飯を食べに行って世話をしてもらっていました。未だに、インターネットなどで連絡を取り合っています。とにかく辛かった事は、インフラが整っていない事に加えて、暑い時期だと45度越えるので、その時に停電してしまうと、周りがコンクリートでつくられているので、夜になっても気温が下がらないので、扇風機は使えないし、周りから熱が来るので、全然寝れなかったりした事が一番辛かったです。

参加者 昭和61年1次隊ということで、エチオピアに派遣されました。その当事は、エチオピアというと飢餓などで大変な時だったのですが、私は首都のアディスアベバの農業省のガレージで、そこの人たちと一緒に活動していました。当時はイギリスや日本の車が沢山入ってきて、機材や道具が無い中でも、壊れた車の修理をしていました。もう30年くらい前になりますが、現地の人と一緒に仲良くやっていました。結構大きなガレージで、日本では、そんな大きなガレージは無いのですが、こんな町の農業省のガレージは100人ほどいるような、小型車とか大型車とか自動車電機など部門に分かれている大きなガレージでしたが、職場の仲間にはとても親切にしていただいて、良い経験になりました。

参加者 JICAの三重県デスクで国際協力推進委員をさせていただいています。派遣国はタンザニアで、2004年12月から2006年12月まで小学校教諭で行っていました。派遣先はタンガ市の教育局でしたので、州の中には76校の小学校があるのですが、巡回して体育を指導するという要請でした。もともと必要性を感じていないので、体育というものをやらないです。ボールも学校に一つあれば良いという感じで、あっても校長室に鍵をかけて大事に置いてあって、使われていないのが現状でした。準備体操もしましたが、もともと日本で3年ほど講師をした後に派遣されましたので、行った事によって、準備体操は本当に必要なのか、体育はなぜするのかを自分自身も考えさせられた良い機会になりました。なんでも楽しんでするので、準備体操と言うより、ダンスをさせる感じでしたが楽しかったです。勿論、運動会も知らないので、子ども達に少しでも多くの経験をと思って、運動会を開催しました。綱引きをしましたが、綱が無いので、日本語補習校で借りてくれば良いのですが、私がいなくなった後にも持続的にできる物をと思ったので、棒綱引きにして、棒を赤白に分けて3人ずつ前の子がおさえたら、後ろの子は前の子の腰を掴んで引っ張っていくという雰囲気だけ味わった綱引きでしたが、とても喜んでくれてたくさんの笑顔を見ることができました。

参加者 現在、三重県国際交流財団で働いています。私は、ドミニカ共和国の方へ幼稚園教諭で行っていました。平成4年から7年まで3年間行っていました。まず、行って困ったのは喋れなかったことです。それから、幼稚園のつもりで行ったのに実際は保育園で、子ども達がたくさんいるのですが、最初は何がどうなっているのかさっぱり分からなかったです。おもちゃが無かったので、まず古タオルを使って、ぬいぐるみを作りながら、その園の様子を見て、何が課題なのかを把握しようということで、同僚の者と一緒に子どもたちのおもちゃを作っていました。あと、子ども達は、絵本が大好きで、向こうは紙が無いので、絵本も無いです。自由に本を見る環境では無かったですが、私は、そんな状況を少し聞いてから行ったので、スペイン語の絵本を少し買って持って行きました。ただ、読めないので、片言のスペイン語で練習をしながら絵を見せるのですが、少しその気配がするだけで、みんなが集まってきて、拍手をしてくれたので、へたなスペイン語でしたが読み甲斐があったと思っています。皆さん同じだと思うのですが、全然違う環境の中に放り込まれて、その中で、何をしたら、この人たちのためになるのかと試行錯誤しながら活動する3年間でした。ですから、ここでの経験はすごく大きかったと思います。

5 事務局概要説明

(省略)

6 意見交換(ミーティング)

青年海外協力隊への参加動機について

市長 派遣の経験も踏まえて自己紹介していただきまして、ありがとうございます。まず、なぜこの青年海外協力隊に参加されたのかという動機をお聞かせいただきたいと思います。それには、先ほどのお話の中で、派遣先の国ではインフラが整っていないとか、水の不安もある、電気も通っていないなどの、いろいろな不安がある中へ飛び込んで行くというということは、相当な思いや考えがあって行かれたと思いますので、その辺りを皆さんに聞かせていただきたいです。

参加者 私は、素晴らしい動機があったわけではなくて、どちらかというと転職するような感覚でした。もともと幼稚園で働いていましたが、いろいろあって転職を考えるようになり、ただし、幼稚園の先生しかしたことがないので企業では雇ってもらえず、何に生かそうかと思っていたところ、青年海外協力隊の募集があることを知って応募しました。最初は軽い気持ちでしたが、実際現地に派遣される前日に身につまされました。電気も通ってないから人の顔も見えないと聞いて、大泣きしましたが、その後は開き直るしかなくて、現地に行って学ぶしかなかったので、自分の持っている経験で何か人の役に立てるのであれば、行ってみたいというのが動機です。立派な動機がなかったので、行ってから大変でした。

参加者 私は教師になりたいと思った時点で、学びたくても学べない子どもたちに教えたいという思いはありました。ですから、アフリカで教えたいという気持ちがあったのですが、まずは、日本で学んで技術を身に付けてと思っていましたが、なかなか採用試験に受からなかったので、それなら、先に世界に出てしまおうと思って青年海外協力隊を受けたら受かりました。先に行ってきて良かったと思います。

参加者 私の動機としては、海外に出て自分でやってみたいという単純な考えでしたが、もう子どもが行くような年齢になってきて、真ん中の子どもが行きたいというようになってきまして、行ってみたらとは言いましたが、行ける職種や技術を持っていないと、なかなか行きたくても行けないので、自分の場合は、仕事で自動車の整備をやっていたので、そんな機会があって試験を受けたら受かったという感じです。

参加者 2点ありまして、1点目は、学生の時に、一人旅で途上国に行ったことが、海外に興味を持ったきっかけです。その中でも大きいものの一つは、インドに行った時にマザーテレサのボランティアに何日か行かせてもらったことで、そこにはものすごい数の方が来るので、住んでいる方も流れ作業で、僕じゃなくても良いのではないかという感じだったので、もう少しその人の記憶に残ってもらえるような事をしたいと思って応募したということと、もう1点は、大学の時に、専門で感染症を扱っていたのですが、特に途上国で起こるような感染症を扱っていたので、海外の途上国には、こんなに感染症があるのかということが分かって、もっと専門の目で見てみたいという思いがリンクして、最終的に現場も見てみたいと思い、協力隊に参加しました。

参加者 大学の時に海外に行った経験があり、1回は海外の病院で働いてみたいと思っていました。あと、大学の時に検査技師の資格を取って、寄生虫学の研究をしていて、アフリカの方と話す機会があって、たまたまその時にJICAの募集のポスターを見て、これかなと思いました。いろいろ悩んでいましたが、やらずに後悔するよりは、やって後悔する方が良いと思いました。

参加者 私は1999年にリタイアして、その後、虚しい気持ちになって、退職すると、なんだかこのまま歳をとっていくだけの人生なのかなという妙な気持ちが沸いてきました。私は、1963年に企業に入社して、初めは設計分野を担当していて、1970、1980年代の高度成長期のころは、毎日忙しくて、仕事は厳しかったですが、やり甲斐のある生活を過ごしたように思います。そして、1999年に退職しました。その間にいろいろ身に付いた知識や技術や経験がいろいろありますが、机に座って仕事をしていただけではなくて、現場で問題が起これば出ていかないといけなかったり、当事はやらされていると被害者意識を持っていましたが、それがいろんな形で身に付いてくると、このまま無駄になってしまうのは寂しいと思い、何かに生かせる場がないのか、虚しい気持ちが、取り忘れた単位があるような感じで、もやもやしていた時に、シニアボランティアの広告を見ました。非常に不安があったのも事実で、現地に行ってできるのか、言葉や生活はどうなのかと不安はいっぱいあったのですが、あの時に踏み出して良かったと今となっては思っていますが、そんな動機で応募しました。私はリタイアした人に、こういう世界があるということを何か伝えてあげたいという気持ちが、ずっと尾を引いています。これまでもそのような活動をしてきたつもりなのですが、またそのような場を与えてください。

市長 せっかくリタイア後に、思いがあって途上国に行かれて、派遣が終わって帰って来てからも、これからまだまだ60歳以上の方にお話をしてただいて、シニアボランティアをしていただけるような啓発活動を、いろいろな所でしていただきたいと思います。

参加者 私の動機は、高い志があったわけでもなく、結構、東南アジアを旅していたので、そこでボランティアなどもあって、話は聞いていたのですが、まさか自動車整備でボランティアに行けるとは思っていなかったのですが、たまたま四日市で説明会があったので、一度聞いてみてパンフレットをもらって、職種も沢山ある中で自動車整備もあるし、自分がやっている仕事で行けるということを、その時に初めて知って、それから応募しました。アジアの方へ旅行していたと言っても、英語が堪能なわけでもないですし、青年海外協力隊は自分の中で敷居が高いと思っていましたので、合格はしないだろうけど応募してみようと思いました。そしたら合格してしまいました。行く以上は、気合を入れてやってこようと思い、やらせていただきました。国は3カ国選べましたので、そのうちの一つにネパールを書いた覚えがあります。その前の面接の時に、国はどこでも良いかと尋ねられて、行かせていただけるのであれば、どこでも良いですと答えたらネパールになりました。

参加者 皆さんの動機を聞いていると、時代を感じてしまいます。私の動機は、もともと機械系の学校でしたが、これからは食糧危機がやってくるので農業が大事だと思って、農業試験場の方へ行っていました。国内で農業をしようと思いましたが、当時、農家でない人が国内で農業はできないと言われて困っていたら、たまたま友達に見せてもらったのが、青年海外協力隊の説明会でした。それで、説明会に行って応募しました。その時は、職種や国の希望を言えたので、当時、バングラデシュが食糧危機だったので、バングラデシュに稲作で行きたいと言いましたら、すごい国なのに応募者が多くて順番待ちしていました。それほど行きたい方が多かったみたいで、待ってくれと言われて、待ちに待っていたところ、ある日突然、ケニアで稲作があるけれど行きますかと言われて、試験場の先生方にも相談して、当時はインターネットがないので情報がなかったので、何の情報もないまま行くかどうかを決めるだけで、知っているのは「少年ケニア」しかなかったです。ジャングルとサバンナがあるというのが頭の中でとても矛盾していて、そんな所で米を作ったら怖いと思いながら行きました。逆に情報がなかったので行きやすかったです。行くしかないですし、皆さんは志が高かったかもしれませんが、私は、最初は米を作ろうとしか思っていなかったです。事前に訓練があるのですが、その中で協力隊の話を聞いて理解をした後は、少し変わってきて、自分も作らないといけないが協力しなければいけないのかと思って行ったのが、本当の動機です。それで、3年ケニアに行って、戻って来てから会社に就職して2年後に、また仕事で半年間、稲作の関係のかんがい施設を造るために行きました。それも、またどこかで繋がっていたのかと感じました。

市長 皆さんポジティブだなと思いました。あと、何も考えずに行かれた方、十分考えて行かれた方、いろいろいらっしゃいますが、ご家族にもご相談はされましたか。先ほども、子どもさんのお話が出ましたが、ご自身が行かれた時のご家族の反応というのは、応援しながらも心配もあると思いますが、どんな感じだったでしょうか。今は、賛成される立場だと思いますが、女性の方だと親御さんは心配されたのではないでしょうか。

参加者 私は、兄に出て行けと言われました。お前ばかり好きな事をして、自分は我慢して頑張っているのにということで、出て行けと言われました。それを聞いて父親は、何も言えなくなったので、お前が帰った時には、一緒にご飯を食べられるようにしておくからと言ってくれました。どちらかと言うとみんな反対でした。ですから、合格の通知をもらったのは秋ですが、その時に言っても派遣直前に言っても怒られるのなら、怒られる期間が短い方が良いと思い、派遣の1カ月前に言いました。12月に言って怒られて、1月から訓練で家を出ました。

参加者 私は、大きく反対される事はなく、好きな事をやらせてもらいました。多分、母はとても心配していて、帰ってきて初めて会った時には泣いていました。自分が決めた事をやってしまうので、言っても仕方がないと思っていたと思います。

多文化共生社会について

市長 それほどの意志がないと、途上国に行く事は難しいと思いますし、向こうに行ったら言葉が分からないなりにも、どのお写真を拝見しても、皆さんきらきら目が輝いてみえて、とてもうらやましく思います。そんな中で、皆さん方が持っていらっしゃる技術などが、何年か経ってから、必ず根付いて役に立っているはずですので、皆さん方が先頭に立ってやっていただいたということを、ぜひ次にも継続をしていただきたいと思いますし、今、途上国の食糧不足などに役立って、ケニアでは※※さんのお名前が語り継がれて、※※米と名づけられているかもしれないようなことを、皆さんはされているわけです。そのような人材が鈴鹿市や三重県に沢山いらっしゃるということは、凄い事だと改めて感動しています。
 本市も62カ国、7千人ほどの鈴鹿市民の外国人の方が在住されていて、いろんな国の方がみえますので、学校でも当たり前のようにクラスの中に外国人の子どもが何人もみえるようになりました。そんな中で、多文化共生が定着してきた鈴鹿市ですが、全国の外国人集住都市会議に参加しても、鈴鹿市の事例が皆さん方にモデル的に見ていただけるような事業になってきています。
 そんな中で、皆さん方が外国に行って活動された経験をもとに、外国人の方と触れ合う機会もあると思いますが、鈴鹿市がもっと何か取り組んだら外国人の方にやさしいまちになるのではないかという事や、気になる事があれば、教えていただきたいと思います。

参加者 具体的な提案は思い付かないのですが、現地で見てきた行事を2つほど紹介します。トンガの場合は、2009年に大使館が出来ました。その時以降、大使が主導して日本語コンテストをしました。トンガの方にテーマを与えて、対象年齢は覚えていませんが、高校生くらいの方が話をしていたと思います。その入賞者を日本に研修旅行という形で何人かを派遣するという特典を与えて、そういうことが、日本語を覚える動機付けになるようにやっていたと思います。私は日本語の指導について疑問を持っていました。というのは、トンガで日本語を覚えても生かすところが無いです。ラグビーでやって来る人はいますが、日本とトンガの友好の行事としては良かったのではないかと思っていました。
 もう一つ記憶にあるのは、7月にお祭りをするのですが、大規模な祭りが1週間ほどあります。その最後にパレードコンテストをして、そこへ、JICAチームということで私も参加しました。これを主導したのは、青年海外協力隊の人たちで、それを主導したのは2人の女性隊員です。非常にうまく隊員とシニアボランティアのメンバーをまとめてくれて、その結果は優勝でした。優勝というと、いろんな国のパレード、トンガ内部のいろんな組織のパレードをするのですが、それをやる中で、日本のJICAチームが優勝しました。その時に、やりながら私が非常に嬉しかったのは、踊るあほに見るあほの歌の意味がよく分かったような気がしました。この話は、トンガの青年海外協力隊の中で語り継がれているだろうという気がして、参加して良かったと思います。鈴鹿市の行事としては適当な物が思い付かないのですが、現地では、そんな行事をやっていました。

市長 日本語コンテストとは、面白そうですね。

参加者 ホテルのホールで大使が参加して、審査員は大使館のメンバーや省庁の幹部の方が並んで、スピーチするのは若い方です。私たちも観客として参加をして、大変盛り上がりました。

参加者 実際に接してみる事が一番大事だと思います。行く前は、アフリカの人のイメージがいろいろありましたが、行ってみて話してみたら、やはり同じ人間なんだなと思いました。接する機会が増えてくると良いかと思います。職場の若い子たちと話をしていても、海外に行かない子が結構多いですが、どんどん海外に行って海外の方と話してみると、日本の良さも悪さも見えるので、まず接してみたらいいよと言い続けています。やはり、接して腹を割って話すという機会を増やしていくことが大事だと思います。

市長 ※※※※は、最近帰ってみえましたが、どうでしょうか。行ってみえる間に、鈴鹿市は変わりましたか。

参加者 鈴鹿市で変わったところと言えば、私はスーパーの近くに住んでいますので、土曜日の夜に行くとブラジル人の方がたくさんみえて屋台が出ているのを見て、こんなに南米系の方が多いのかと思いました。どうしたら、国際交流につながるのかという点では、先ほどもお話がありましたが、接する事も大事ですし、もう1点は、私は派遣の後、今年の9月にイギリスに留学していたのですが、それを通して思ったのは、自分の意志をしっかり発信できるようになる事は非常に大事だと思っています。ガーナでもそうですが、イギリスでも言われたのは、あなたの国はどうなのかと聞かれました。ガーナは、あまり情報が無いので、宗教の事などを聞かれるのですが、イギリスでは、宮崎アニメを見ているので、それはあなたの国のどんな文化と関係しているのかなどをとても聞かれました。ちょうど伊勢志摩サミットがあったので、それに関連して、伊勢志摩には何があるのかとか聞かれるので、そこで自分の国の事を説明できないと、相手の事も興味が持てなくなると感じました。そこで、逆にあなたの国はどうなのかと聞き返したりして、話が広がったりします。キリスト教の人は、そういう風に考えるのかとか感じる事もあって、今、思い返してみると、自分の地元の歴史や文化のルーツを全然知らなかったので、もっと知っておくと、もっと違う視点で見れたのではいかと思います。

市長 特に、自分たちの国の歴史や、自分たちの地域の話がどれだけ出来るか出来ないかで、大きな違いがあるかと思います。子どもたちにも地域学習ということで、小学校でも教えています。地域の偉人ということで、例えば鈴鹿では、大黒屋光太夫や佐々木信綱についてしっかり教えていくということが、今は大事だと思います。それを自分で発表できるようになれるように、能力を形成していくにも、小中学校の教育の中で大事だという事が、今のお話の中でも改めて感じさせられました。クラスの中で、外国籍の子どもたちと接することができる鈴鹿市の環境は、他市よりも恵まれていると思っていますので、今後も多文化共生教育に結び付けていきたいと思います。
 青年海外協力隊OBの皆さん方には、ぜひ、今後、後輩を増やしていくとか、いろんな国に派遣することができる人材を育成するとか、そんな事について行政が出来る事があれば教えていただきたいと思います。先ほど、シニアの方を誘う場をくださいと言っていただきましたが、そんな事があれば、鈴鹿市の中で連携が出来るかと思いますので、何かあればお聞かせいただけますか。

参加者 最近の説明会に来る方の特徴は、親子連れです。親が子どもに勧めて連れて来るという光景を見受けるようになりました。それだけ応募者が出てこないです。ですから、子どもさんは高校生くらいです。そして、親の方が、もう少ししたらシニアで行きたいと言う方が、ここ数年出てきました。今までは、そんなことは絶対に無かったです。そのような傾向にあるということは、学校教育の問題もあると思います。多文化共生の中で外国の情報も入っていると、行きやすいと思うので、日本の事も教えていただかないといけませんが、外国の国についての話も学校でしてあげるというように、両方してあげた方が良いと思います。普段の接し方は、気を遣ってあげるけれど区別はしない。私が海外に行った時に、区別される事が嫌だったです。同じような生活をしていて、慣れてくると、もう何人であっても関係ないです。子どもたちはもっと慣れるのが早いですから、そんな感覚で接してあげて、でも環境の違う生活があるので、そこは気を付けてあげる。その使い分けが必要だと思います。同じ様に生活をしていて、お腹の具合が悪くなったら、私がお世話になった所では、とうもろこしを砕いた物をおかゆのようにして出してくれました。でも、普段は放ったらかしで、現地語で話しかけられて、こちらもそのうち分かるようになるだろうと思っていたら、本当に分かるようになってきます。そんなことの方が、私は自然だと思うので、そんな方針を持ってやっていけたら良いと思います。それと、近くにいる人と会話をするきっかけとして、たまたま近くにOBがいて、奥さんがタンザニアの方で、その方と友達と4人で、スワヒリ語寸劇をやりました。そんな事をみんなでやるということをプログラムに入れてやれば、おもしろいと思います。と言いますのは、一緒に考えないと寸劇にならないので、みんなで話して考える時間があると、おもしろいと思います。

参加者 JICAからお話をさせていただきたいのですが、今日、皆さんもお話を聞いていただいたように、すごい精神力や解決力を持たれていると思います。現職参加制度というものが、JICAの方にあって、鈴鹿市に住んでみえる方は、ブラジル人とペルー人が多いですが、スペイン語圏の所に現職参加として、職員の方を隊員として派遣していただくと、語学力はもちろんのこと、このようにたくましい方々のように、現場に行って培われる力や可能性が、もの凄くあると思います。また、ブラジルやペルーの人たちの生活を知る事、そこに入って感じた物を持って、また鈴鹿市に戻って来てもらって、またそこで活躍するという繋ぎの人材にもなるかと思いますので、そこで現職参加のプログラムを使っていただけると、鈴鹿市のためにもなると思います。現職参加プログラムは、都道府県全国全てあります。あまり多くはないですが、自治体によっては条例を作っているところもあります。

参加者 名張市は、現職参加あります。行ってみえる方は今はいないです。過去に1名いましたが、それ以降、出ていないです。伊賀市もありますが、それほどしょっちゅうは出ていないです。市としては、職員さんを出すというのは、結構負担があると思います。でも、そんな制度があるというだけでも、それを目標にされる方が出てくると思います。密かに行きたいと思っている方もいると思います。でも、仕事を辞めて行かなければならないとなると、やはり考えてしまうと思います。

参加者 あと、現職の教員の方を推していただいて派遣していただいたりしています。また帰国した隊員を特別枠として採用したりすることもやっています。そのようなことも、ぜひ知っていただけたらと思います。

参加者 私は、地元に住んでいて、鈴鹿市のまちづくりなどに役に立つ事がないかと考えた場合、鈴鹿市には、確かに外国人の方がたくさん住んでいますが、その人たちと、鈴鹿市民の方との触れ合いがあるのかというと、その人たちだけで集まって住んでいるだけという部分もあると思います。本当に一番良いのは、観光客の部分で言えば、たくさんの外国人の人たちに鈴鹿市へ来てもらって、観光収入などでまちが潤えば、それはそれで良い方法だと思いますが、先ほど話があったように、外国人が鈴鹿市に魅力を感じてもらって呼び寄せられるようにするには何をしたら良いのかというと、鈴鹿市には、他のまちには無い文化や歴史もあります。例えば石取祭は結構賑やかにやっています。桑名市の石取祭がユネスコ無形文化遺産に登録されましたが、鈴鹿市にも石取祭がありますので、そこに外国人の方が参加する機会をつくれば、SNSを見た人たちが鈴鹿市に一杯やって来て、観光収入でまちが潤えば、それが一番良い形ではないかと思います。現時点で言うと、私の子どももやっていますが、日本人だけがやっているという感じです。それを外国人の方も参加できるような機会や、チームをつくって、先ほど言われたように見ているだけではなくて、参加するような祭りに、岐阜の郡上もあるように、そんな門戸を開いたりすれば一石二鳥だと思います。F1もやっていますが、F1に来る観光客は、F1の観光客なので、もっと、この鈴鹿の田舎のまちや、いろんな地区にもいろいろな祭りがありますので、体験が出来るようなイベントとか企画をやったらどうかと思います。あとは、それを受け入れる気持ちが市民にあるかどうか、海外経験のある人で、音頭をとれるような人がいろいろやれば、いいようになると思います。

市長 4月に、わいわい春祭りというお祭りを国際交流協会を中心に開催しています。そこには、いろいろな国の方にも来ていただいて、国の料理や雑貨のお店を出していただいたりしています。もう10年近くはやっていますが、なかなか認知されていないというのが、今のお話の中からも少し見えてきましたので、もう少し啓発もしていかなければいけません。また今は、国際交流協会が中心にさせていただいていますが、今日のような機会にOBの皆さん方と連携できるような協力体制を構築していく必要があると思います。それと、その中で、先ほどお話をいただきました日本語コンテストとかパレードなども出来れば良いと思います。毎年というと大変ですので、何年かに1回させていただいたり、内容の幅を広げていくような事が大事なのかと思います。
 これほど人材がたくさんいらっしゃるので、こういう機会がないと、知り合う機会もなかったのが、まとまってOBの皆さん方と話が出来るということは、そのような協力もお願いが出来ると思っています。あと、外国人の方が、研修などでいらっしゃっても、なかなか通訳が見付からない場合があります。今でも、皆さんは現地の言葉をお話出来ると思うのですが、ちょっとした日常会話なども、これからぜひまたお手伝いしていただくような、そんな関係づくりをしていけたらと思います。先ほどの現職参加制度もそうですが、連携づくりも大事だと思いますので、ご紹介いただいてありがとうございます。

参加者 言葉は不思議なもので、喋らないと忘れてしまいます。文字で学んだわけではないので、喋り始めたら、徐々に復活してきます。多分、皆さんもそうでしょうが、英語で喋っている時は、英語でしか考えていなくて、徐々に湧いてきて、相手の方と喋っているうちに復活して、また忘れてしまう、その繰り返しです。ですから、現地語も現地から来た方と喋っていたら、少しずつ思い出します。だから、今の日本人の語学の学び方が間違っていて、文章で学んでしまうと忘れると絶対に出てこないです。でも話した言葉は頭のどこかに残ってて、どこかに繋がってきますので、そんなためにも多文化共生は大事だと思います。

参加者 トンガはトンガ語ですが、第二公用語が英語ですので、私の場合、トンガ語は2、3週間で叩き込まれましたが、活動は全て英語でした。あと、マレーシアのボルネオ島は、ここもマレー語ですが、第二公用語は英語でしたので、活動は全て英語でした。ただ、学生は英語が苦手だということがあって、派遣前にマレー語をかなり教えてもらいましたが、マレー語が必要になったケースは、ほとんど無いです。

市長 また、皆さん、現地で一度は危険な経験をされたかと思います。

参加者 マラリアにかかりました。1回目は酷くて、熱帯性の脳にくるタイプでした。自分で原虫が暴れだしたかどうかが分かりました。暴れだしたら寝ているしかないです。

参加者 ちょっとした風邪などは、なんとも思わなくなります。

市長 こんなたくましい人材を、ぜひ本市からも輩出したいと思います。今度、オリンピック、パラリンピックの日本での開催が決まっていますし、ラグビーはワールドカップが2019年の開催が決まっています。そんな中で、鈴鹿市はキャンプ地に手を挙げていこうとしているところですが、そうなると、スポーツの関係でもいろいろな国の方がいらっしゃると思いますので、皆さん方にも今まで以上に、そんな所でご活躍いただくように行政からも要請をさせていただく機会もあるかと思いますので、ネットワークの構築をしていただきたいと思います。またこのような会も定期的に開いていただいているとのことですが、もっといろいろな所で開催できるようにサポートしていくのは、私たちだと思いますので、ぜひそのようなご協力もさせていただきながら、国際交流の輪、海外への協力をするという高い志を持って、日本人として一緒にやらせていただきたいと思いますので、今後ともご指導を賜りたいと思います。
 今日は、私の興味深い話ばかりお聞かせいただきましたが、最後にこれだけは話しておきたいということがあれば、ぜひご発言いただきたいと思います。

参加者 青年海外協力隊の活動とは少し異なりますが、私は伊勢型紙の彫型画会に入って活動もしていますが、後継者不足です。私は職人ではないので、型紙職人の事情というのは全く知らないのですが、彫型画会に入っているとそんな話も聞くので、若い方はなかなかやってくれない、それならば最近海外で注目されている部分が出てきましたので、いっそのこと海外の方にやっていただいたらどうかと思っています。実は、ハンターで展示をして体験彫りをやっていますが、海外の方でやりたいと思っている方が沢山いらっしゃいます。興味を持ってみえる方がいるのかと感じています。職人になるというと、いろいろ難しいと思いますが、体験的にやってみて興味を持たれたら、そちらへアプローチするということもできれば良いのではないかと思います。

市長 ありがとうございます。外務省のプログラムで、市のシティセールスをしながら、そこに伝統産業とか、工芸品を紹介していくという中で、鈴鹿市も参加をさせていただきました。その時の体験コーナーで、伊勢型紙と鈴鹿墨のコーナーは、外国人の方が興味を持たれて、たくさん並んでみえました。そういう意味では、今、お話していただいたような事は、どんどん取り入れていくべきだと思いますし、日本でする場合は、ボランティアの方々にもお手伝いをしていただければと思います。

参加者 鈴鹿市に外国人の方が多い事はマイナスではなくて、鈴鹿市の魅力になるようになっていってほしいと思っています。外国人の子どもは、とても手がかかるし、お荷物だと思わずに、彼らが輝いて、彼らも主役になって鈴鹿市を一緒につくっていくような人になってほしいと思っています。ですから、お客さんではなくて、彼らも市民の一人として、一つの役割を担っていっていただけるような、そんなまちづくりができると、今後、いろんな場面で、彼らのアイディアなどが生かせるのではないかと思います。ぜひ、そんな方向性で進めていけたら良いと思います。

市長 現在、鈴鹿市には7千人ほどの外国人の方が住んでみえると話しましたが、多い時では1万人を越えていました。その中で、鈴鹿に家も建ててみえる方、起業されている方など、鈴鹿市の住民として、鈴鹿市の地域にしっかり貢献していただく方が、この10年で非常に増えたと思っています。学校によっては、彼らが、その学校の卒業式の送辞や答辞などを代表で読むことが、鈴鹿の中では当たり前の光景になってきました。高校進学率は、ほぼ100パーセントになりましたので、そんな鈴鹿の誇りになるような方々と、もっと一緒にまちづくりができるように、もっとその方々が住みやすいような鈴鹿市のまちづくりを、行政としても取り組んでいきます。そのようなきっかけづくりには、先ほどのお祭りやフェスティバルなどの中で、まず対話が出来るような楽しい事業というのも一つの方法かと思いますので、今まで、やっているお祭りもブラッシュアップして幅を広げていきたいと思います。定着してきた方々が、これから先、もう一歩足を踏み出してもらえるような政策に繋げていけるように頑張りたいと思います。
 今日は、ありがとうございました。それぞれの年代の方が、同じ途上国へ行くという目的を持って、彼らの指導をしていただいたり、いろいろな技術を継承して、戻って来ていただいて、また日本で活躍していただく事がJICAの活動であると思っています。ぜひ、鈴鹿で講習会をさせていただいたら講師でお招きさせていただきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。

※この会議録は、要約しています。

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