佐佐木信綱記念館 佐佐木信綱の紹介

ページ番号1004364  更新日 2024年1月23日

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佐佐木信綱

写真:短冊

写真:佐佐木信綱


 明治5年6月3日、佐々木弘綱(文政11~明治24年)の長男として、信綱は現鈴鹿市石薬師町に生まれ、6歳(以下、数え年)までを過ごしました。信綱は5歳より、父弘綱から「万葉集」や西行の「山家集」の歌を暗唱するよう教えられ、6歳の時に初めて短歌を作りました。

 信綱は6歳から短歌を詠みはじめ、生涯に1万余首を作歌し、第1歌集『思草』(博文館 明治36年)から第9歌集『山と水と』(長谷川書房 昭和26年)や『佐佐木信綱歌集』(竹柏会 昭和31年)など、多くの歌集を刊行しました。また、明治30年頃より竹柏会を主宰し、機関誌『心の花』の創刊(同31年)や門人の育成・指導にあたるなど、歌人として活躍しました。

 一方、信綱は学者として、特に万葉集の研究者として、不滅の大業というべき『校本万葉集』(校本万葉集刊行会 大正13~14年)を刊行するなど、万葉集の研究と普及に尽力しました。そして、昭和12年4月28日、信綱は第1回文化勲章を受章しました。信綱は和歌・和歌史・歌学史の分野で認められ、66歳で受章となりました。

 このほか、信綱は忙しい著作の合間に、唱歌「夏は来ぬ」(小山作之助作曲)や童謡「すずめ雀」(滝廉太郎作曲)、軍歌、北海道から九州までの学校校歌等の作詞を多数手がけました。

 晩年は、静岡県熱海市の凌寒荘へ移り、約20年間過ごしました。この間、歌人・万葉学者としての集大成である著作物の数々や、『ある老歌人の思ひ出』(朝日新聞社 昭和28年)などの自伝をまとめました。

 昭和38年12月2日、信綱は凌寒荘にて92歳で亡くなりました。信綱はその一生を歌道と万葉集研究に捧げ、多くの業績を残しました。

信綱は、なぜ「佐佐木」か?

写真:佐佐木信綱 名刺

 信綱は明治36年(32歳)、中国へ遊学をしました。その時に上海で名刺を作りましたが、出来上がってきた名刺は、紅唐紙(縦約24cm×横約12cm)に「佐佐木信綱」と印刷されていました。この名刺を見て信綱は「見た目がよい」と大変気に入り、以後の著作物などに好んで「佐佐木信綱」と使うようになりました。

信綱略年譜

西暦

年号

年齢
(数え年)

主な出来事

1872 明治5年 (1歳) 6月3日 佐々木弘綱(足代弘訓門人、歌人、国学者)と光子(神戸藩士岡本氏の娘)の長男として、石薬師町(鈴鹿市)に生まれる
1876 明治9年 (5歳) 万葉集、山家集の暗誦をはじめる
1877 明治10年 (6歳) 短歌の実作をはじめる。12月 一家で松阪へ移り住む
1882 明治15年 (11歳) 3月 上京。神田小川町(千代田区)に移り住む。高崎正風に入門
1884 明治17年 (13歳) 9月 東京大学古典科国書課に入学(~21年で卒業)
1890 明治23年 (19歳) 10月 父弘綱共著の『日本歌学全書』を刊行(~24年まで)
1896 明治29年 (25歳) 唱歌「夏は来ぬ」を作詞・発表(~34年の間)
1898 明治31年 (27歳) 2月 竹柏会機関誌『心の花』を刊行
1903 明治36年 (32歳) 10月 第1歌集『思草』刊行。中国遊学。この時、上海で作った名刺がきっかけで、「佐佐木信綱」と使うようになる
1905 明治38年 (34歳) 7月 東京帝国大学の講師になる(~昭和6年まで)
1912 明治45年・大正1年 (41歳) 7月 本郷西片町(文京区)に移り住む。10月 第2歌集『新月』刊行
1917 大正6年 (46歳) 6月 学士院恩賜賞を受賞
1924 大正13年 (53歳) 3月『校本万葉集』刊行(~14年まで)
1927 昭和2年 (56歳) 9、10月『新訓万葉集』刊行
1932 昭和7年 (61歳) 10月 還暦記念として故郷に石薬師文庫を寄贈
1934 昭和9年 (63歳) 7月 学士院会員となる
1937 昭和12年 (66歳) 4月 第1回文化勲章を受章。6月、芸術院会員となる
1944 昭和19年 (73歳) 12月 凌寒荘(熱海市)に疎開・移り住む
1948 昭和23年 (77歳) 11月『佐佐木信綱全集』刊行(~31年まで)
1951 昭和26年 (80歳) 1月 第9歌集『山と水と』刊行
1953 昭和28年 (82歳) 9月『ある老歌人の思ひ出』刊行
1963 昭和38年 (92歳) 12月2日 凌寒荘にて永眠

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