大下遺跡

ページ番号1009499  更新日 2024年1月23日

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写真:大下遺跡1
環濠(北から)
写真:大下遺跡2
環濠土層断面
写真:大下遺跡3
木樋発見(東から)
写真:大下遺跡4
木樋(東から)
写真:大下遺跡5
溝・土坑(南から)
タイトル
大下遺跡
タイトル(よみ)
おおした(おおじも)いせき
解説
大下遺跡は稲生山の丘陵から南に長く延びた段丘の先端部に立地します。標高は3mほどと低く,周囲の水田とは2mほどの比高差があります。平成30年に道路改良工事に先立って発掘調査を行いました。
確認された遺構は,弥生時代後期から古墳時代中期にかけての大溝(環濠)1条と時期不明の溝1条および土坑2基です。
環濠は計画された道路とほぼ重なる形で延長90mにわたり確認されました。幅4m,深さ1.5mを計ります。時代は上下で2時期に別れ,上部は古墳時代前期から中期前半(4世紀~5世紀前半)の,下層からは弥生時代末から古墳時代初頭(2~3世紀)の土器がまとまって出土しています。溝の底部は水分に富んでいたことから多くの木製品や建築部材も出土しました。
調査でもっとも大きな発見は環濠の平野側の壁を断ち割って設けられた木樋です。半割した丸太をくりぬいた樋と蓋を組み合わせパイプ状にしたものが埋設され,環濠に溜まった水を平野側に排出する役割を持っていたと思われます。木樋の年代は溝の最下層から出土した土器から弥生時代末頃と考えられました,木材について放射性炭素による年代測定を行った結果も1世紀から2世紀初頭との年代が得られています。よって,木樋の設置は弥生時代末頃まで遡るとして間違いないようです。
弥生時代の大きな集落の多くが周りに堀をめぐらせていて環濠集落と呼ばれています。この大下遺跡もその一例ですが,環濠の終末の排水施設が確認されたのは全国でも初めてで,非常に貴重な発見となりました。使用された材木は大型建物の柱を再利用したものである可能性があり,弥生時代後期の大下遺跡は神殿などが建ち並んだ中ノ川流域最大のムラであったのかもしれません。
これ以外に,近世の道路跡が確認されています。陶器の灯明皿が多数出土し,現在の道路が花之木明神への参道であったことがわかりました。
遺跡所在地
鈴鹿市稲生町字河原

大下遺跡の出土遺物

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