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明治5年6月3日、佐々木弘綱(文政11〜明治24年)の長男として、信綱は現鈴鹿市石薬師町に生まれ、6歳(以下、数え年)までを過ごしました。信綱は5歳より、父弘綱から「万葉集」や西行の「山家集」の歌を暗唱するよう教えられ、6歳の時に初めて短歌を作りました。
信綱は6歳から短歌を詠みはじめ、生涯に1万余首を作歌し、第1歌集『思草』(博文館 明治36年)から第9歌集『山と水と』(長谷川書房 昭和26年)や『佐佐木信綱歌集』(竹柏会 昭和31年)など、多くの歌集を刊行しました。また、明治30年頃より竹柏会を主宰し、機関誌『心の花』の創刊(同31年)や門人の育成・指導にあたるなど、歌人として活躍しました。
一方、信綱は学者として、特に万葉集の研究者として、不滅の大業というべき『校本万葉集』(校本万葉集刊行会 大正13〜14年)を刊行するなど、万葉集の研究と普及に尽力しました。そして、昭和12年4月28日、信綱は第1回文化勲章を受章しました。信綱は和歌・和歌史・歌学史の分野で認められ、66歳で受章となりました。
このほか、信綱は忙しい著作の合間に、唱歌「夏は来ぬ」(小山作之助作曲)や童謡「すずめ雀」(滝廉太郎作曲)、軍歌、北海道から九州までの学校校歌等の作詞を多数手がけました。
晩年は、静岡県熱海市の凌寒荘へ移り、約20年間過ごしました。この間、歌人・万葉学者としての集大成である著作物の数々や、『ある老歌人の思ひ出』(朝日新聞社 昭和28年)などの自伝をまとめました。
昭和38年12月2日、信綱は凌寒荘にて92歳で亡くなりました。信綱はその一生を歌道と万葉集研究に捧げ、多くの業績を残しました。
信綱は明治36年(32歳)、中国へ遊学をしました。その時に上海で名刺を作りましたが、出来上がってきた名刺は、紅唐紙(縦約24cm×横約12cm)に「佐佐木信綱」と印刷されていました。この名刺を見て信綱は「見た目がよい」と大変気に入り、以後の著作物などに好んで「佐佐木信綱」と使うようになりました。
西暦 | 年号 | 年齢 (数え年) |
主な出来事 |
1872 | 明治5年 | (1歳) | 6月3日 佐々木弘綱(足代弘訓門人、歌人、国学者)と光子(神戸藩士岡本氏の娘)の長男として、石薬師町(鈴鹿市)に生まれる |
1876 | 明治9年 | (5歳) | 万葉集、山家集の暗誦をはじめる |
1877 | 明治10年 | (6歳) | 短歌の実作をはじめる。12月 一家で松阪へ移り住む |
1882 | 明治15年 | (11歳) | 3月 上京。神田小川町(千代田区)に移り住む。高崎正風に入門 |
1884 | 明治17年 | (13歳) | 9月 東京大学古典科国書課に入学(〜21年で卒業) |
1890 | 明治23年 | (19歳) | 10月 父弘綱共著の『日本歌学全書』を刊行(〜24年まで) |
1896 | 明治29年 | (25歳) | 唱歌「夏は来ぬ」を作詞・発表(〜34年の間) |
1898 | 明治31年 | (27歳) | 2月 竹柏会機関誌『心の花』を刊行 |
1903 | 明治36年 | (32歳) | 10月 第1歌集『思草』刊行。中国遊学。この時、上海で作った名刺がきっかけで、「佐佐木信綱」と使うようになる |
1905 | 明治38年 | (34歳) | 7月 東京帝国大学の講師になる(〜昭和6年まで) |
1912 | 明治45年 ・大正1年 |
(41歳) | 7月 本郷西片町(文京区)に移り住む。10月 第2歌集『新月』刊行 |
1917 | 大正6年 | (46歳) | 6月 学士院恩賜賞を受賞 |
1924 | 大正13年 | (53歳) | 3月『校本万葉集』刊行(〜14年まで) |
1927 | 昭和2年 | (56歳) | 9、10月『新訓万葉集』刊行 |
1932 | 昭和7年 | (61歳) | 10月 還暦記念として故郷に石薬師文庫を寄贈 |
1934 | 昭和9年 | (63歳) | 7月 学士院会員となる |
1937 | 昭和12年 | (66歳) | 4月 第1回文化勲章を受章。6月、芸術院会員となる |
1944 | 昭和19年 | (73歳) | 12月 凌寒荘(熱海市)に疎開・移り住む |
1948 | 昭和23年 | (77歳) | 11月『佐佐木信綱全集』刊行(〜31年まで) |
1951 | 昭和26年 | (80歳) | 1月 第9歌集『山と水と』刊行 |
1953 | 昭和28年 | (82歳) | 9月『ある老歌人の思ひ出』刊行 |
1963 | 昭和38年 | (92歳) | 12月2日 凌寒荘にて永眠 |