佐佐木信綱記念館

佐佐木信綱の紹介

担当:文化財課 TEL・FAX 059-374-3140

ここから本文です。

佐佐木信綱

写真:短冊  写真:佐佐木信綱

 明治5年6月3日、佐々木弘綱(文政11〜明治24年)の長男として、信綱は現鈴鹿市石薬師町に生まれ、6歳(以下、数え年)までを過ごしました。信綱は5歳より、父弘綱から「万葉集」や西行の「山家集」の歌を暗唱するよう教えられ、6歳の時に初めて短歌を作りました。

 信綱は6歳から短歌を詠みはじめ、生涯に1万余首を作歌し、第1歌集『思草』(博文館 明治36年)から第9歌集『山と水と』(長谷川書房 昭和26年)や『佐佐木信綱歌集』(竹柏会 昭和31年)など、多くの歌集を刊行しました。また、明治30年頃より竹柏会を主宰し、機関誌『心の花』の創刊(同31年)や門人の育成・指導にあたるなど、歌人として活躍しました。

 一方、信綱は学者として、特に万葉集の研究者として、不滅の大業というべき『校本万葉集』(校本万葉集刊行会 大正13〜14年)を刊行するなど、万葉集の研究と普及に尽力しました。そして、昭和12年4月28日、信綱は第1回文化勲章を受章しました。信綱は和歌・和歌史・歌学史の分野で認められ、66歳で受章となりました。

 このほか、信綱は忙しい著作の合間に、唱歌「夏は来ぬ」(小山作之助作曲)や童謡「すずめ雀」(滝廉太郎作曲)、軍歌、北海道から九州までの学校校歌等の作詞を多数手がけました。

 晩年は、静岡県熱海市の凌寒荘へ移り、約20年間過ごしました。この間、歌人・万葉学者としての集大成である著作物の数々や、『ある老歌人の思ひ出』(朝日新聞社 昭和28年)などの自伝をまとめました。

 昭和38年12月2日、信綱は凌寒荘にて92歳で亡くなりました。信綱はその一生を歌道と万葉集研究に捧げ、多くの業績を残しました。

信綱は、なぜ「佐佐木」か?

写真:佐佐木信綱  信綱は明治36年(32歳)、中国へ遊学をしました。その時に上海で名刺を作りましたが、出来上がってきた名刺は、紅唐紙(縦約24cm×横約12cm)に「佐佐木信綱」と印刷されていました。この名刺を見て信綱は「見た目がよい」と大変気に入り、以後の著作物などに好んで「佐佐木信綱」と使うようになりました。

信綱略年譜

左右にフリックすると表がスライドします。

西暦 年号 年齢
(数え年)
主な出来事
1872 明治5年 (1歳) 6月3日 佐々木弘綱(足代弘訓門人、歌人、国学者)と光子(神戸藩士岡本氏の娘)の長男として、石薬師町(鈴鹿市)に生まれる
1876 明治9年 (5歳) 万葉集、山家集の暗誦をはじめる
1877 明治10年 (6歳) 短歌の実作をはじめる。12月 一家で松阪へ移り住む
1882 明治15年 (11歳) 3月 上京。神田小川町(千代田区)に移り住む。高崎正風に入門
1884 明治17年 (13歳) 9月 東京大学古典科国書課に入学(〜21年で卒業)
1890 明治23年 (19歳) 10月 父弘綱共著の『日本歌学全書』を刊行(〜24年まで)
1896 明治29年 (25歳) 唱歌「夏は来ぬ」を作詞・発表(〜34年の間)
1898 明治31年 (27歳) 2月 竹柏会機関誌『心の花』を刊行
1903 明治36年 (32歳) 10月 第1歌集『思草』刊行。中国遊学。この時、上海で作った名刺がきっかけで、「佐佐木信綱」と使うようになる
1905 明治38年 (34歳) 7月 東京帝国大学の講師になる(〜昭和6年まで)
1912 明治45年
・大正1年
(41歳) 7月 本郷西片町(文京区)に移り住む。10月 第2歌集『新月』刊行
1917 大正6年 (46歳) 6月 学士院恩賜賞を受賞
1924 大正13年 (53歳) 3月『校本万葉集』刊行(〜14年まで)
1927 昭和2年 (56歳) 9、10月『新訓万葉集』刊行
1932 昭和7年 (61歳) 10月 還暦記念として故郷に石薬師文庫を寄贈
1934 昭和9年 (63歳) 7月 学士院会員となる
1937 昭和12年 (66歳) 4月 第1回文化勲章を受章。6月、芸術院会員となる
1944 昭和19年 (73歳) 12月 凌寒荘(熱海市)に疎開・移り住む
1948 昭和23年 (77歳) 11月『佐佐木信綱全集』刊行(〜31年まで)
1951 昭和26年 (80歳) 1月 第9歌集『山と水と』刊行
1953 昭和28年 (82歳) 9月『ある老歌人の思ひ出』刊行
1963 昭和38年 (92歳) 12月2日 凌寒荘にて永眠